ぶらりぼっち日和

人生回り道。のんびり生きる仕事嫌いな20代

”ぼっちの幸福論”という記事で体中が痺れた件


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このくらい痺れました。

結構ホント。

今話題のnoteの記事です。

著者は小野美由紀さんという方。

コラム記事や本を執筆されているライターさんですね。

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こういうぼっちの幸福とかについて書くと、





「はっw 負け犬の遠吠えかw

「友達いない言い訳w





とかわけのわからんことを言う人がいるので結構憚れるんですよね。

僕も一人でいることの気楽さを説いた記事書いたことあるので若干そう思われたかも。

まあ無名なんで考えすぎでしょうが。





 

序盤で共感しまくり





集合写真が嫌いだ。

 

~中略~

 

まるで、皆と同じように笑わない人間は人間失格、社会の落伍者、つららのように冷たい心の持ち主、と言われているような気がして、シャッターを切られている最中にも心がしんしんと暗くなる。というわけで、中高の卒業アルバムに、私が写っている集合写真は一枚も無い。写真撮影の当日にわざわざ早退したくらいだ。

引用:ぼっちの幸福論 

 




なるほどw

僕は集合写真はそんな嫌いではないので(むしろ陰キャラだった反動から目立ちたい)どんどん写りたいタイプなのですが、



”皆と同じように笑わない人間は人間失格、社会の落伍者、つららのように冷たい心の持ち主、と言われているような気がして、”



ここはわかります。写真撮影だけじゃなくなんとなーくそんな空気ですよね。
 

なんですかね、「辛い時こそ笑顔!」とか「空元気でも元気!(中学の部活で言われた)」とか、人前で変に笑顔作らなきゃいけなかたったりとか。

なんでそんな死期早めるようなことするんだろ。無理やり楽しそうにしてなんか良いことあります?疲れますよ、ええ。

 

でも、誰かと一緒にいるときは楽しそうにしなきゃとか笑顔でいなきゃとか、
謎の心理が働きますよねえ。

それができないと「えっ、なにあの人?」みたいに思われることはあります。

 

いやあ、めんどい。






一人の何が悪いのか





一人は気楽だ。

 一人はすがすがしい。

 一人は身軽である。

 こんなにも良いコトづくしの「一人」なのだが、なんだか世間では悪者扱い、SNSの普及のためか、一人では何かと消費が進まないためか、シェアとかつながりとか「絆」が賞揚されるこの昨今の社会においては、「一人」であることは、まるで不幸なことであるかのように演出されている。ひとりは寂しい、とか、みんなでいるほうがハッピー、といった同調圧力のおかげで、一人でいることはなんだか、悪いことのように思えてきてしまう。若者言葉で、友達がおらずひとりで行動する人間のことを「ぼっち」と呼ぶが、この「ぼっち」はとても恥ずかしいことのように扱われている。最近では「一人カラオケ」「一人ラーメン」など、一人をエンジョイする若者をターゲットにしたサービスも生まれつつあるが、あくまでも都会が中心であり、田舎ではまだまだ「一人」に対する風当たりはきつい。あふれる情報の波に巻き込まれ、孤独とのちょうどいい距離の取り方が、分からなくなってくる。

引用:ぼっちの幸福論



そうだそうだ!(比較的大きな声で)

一人は気楽なことこの上ない。
食事を大人数で食べてり、誰かと出かけたり、何か作業するのって疲れるんですよ。
あんまベタベタはしたくないんですよねえ。

こっちはこっちで自由にやりたいのに相手に合わせなきゃいけない場面とか出てくると、






うあああああああああああああ!!!

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(「あああああああ」でググると出てきます)



ってなります。





とはいえ、寂しかったりする



そう。ここがミソ。

 

確かに一人が好きだし、誰かとずっといるのは果てしなく億劫にもなる。

だからといって人嫌いかと言われればそうでもないです。

たまに誰かと飲んだりご飯いったりするのは好きだし。

完全に外部との関わりを遮断しようとも思いません。




この非常にモヤモヤした感覚を小野さんが見事に表現されていました。

 
 

 

「ひとり」について考えるとき、いつも、思い出す光景がある。

 小学校一年生の時のことだ。

 我が1年2組の教室は、校舎の1階にあり、ガラス窓を隔ててグラウンドに面していた。子供たちは授業が終わるごとに外へと駆け出し、休み時間の多くを校庭で過ごしていた。わたしは、その輪に入らず、窓際の席で、じっと本を読んだり絵を描いたりしていることが多かった。

 

~中略~

 

私の席から10メートルほど離れた、大きくて固い木の教壇で、担任ー30代前半の、若い男の教師だったーが、ひとり、熱心に生徒たちの日記帳に返事を書き込んでいた。彼は決して私に話しかけない。こちらに顔も向けない。ただ、教壇の上に山のように積まれた日記帳の向こう側から、視界の端で、対角に居る私のことをときおり認めつつ、黙々と仕事にうちこんでいる。絵を描くことに没頭する私と、見た目だけは、まるきり同じように。

 職員室でそれをやらなかったのは、今思うと、毎日昼休みを一人で過ごす、私への配慮だったのかもしれない。彼は私の世界を壊さないよう、繊細に気を使いながら、たしかに、わたしのことを見守ってくれていた。

引用:ぼっちの幸福論




おおおおおこれだ!

この感じが凄いしっくりくる!




ぼっちは、ちょうどいい感じの距離感で見守られていればそれでいいんです。

なんか無理して友達と仲良くさせたりとか、誰かと引き合わせたりとかそういうのはしなくていいんです。

 

決して相手の領域には入り込まない。
でも横目で見ながらいざとなったら声をかけてくれる。

 

いやあ、この先生の例えがハマりすぎてやばい。

まさにこんな感じです。

だいぶわがままでしょうが、僕はこの感じの距離感が好きなんですね。

 

これに当てはめるとブログをやってる気持ちもスッキリします。

 

 

 


オトナになった今、ものを書いているとき、ふと、あの時の感覚が身体の中に蘇ることがある。たったひとり、机の前で誰にも会わずに原稿に向かう時、視界があのカーテンのクリーム色で染まり、同じ色をした静かな幸福が、身体の中に満ちてくる。

 窓の外には、読者がいる。彼らはめいめいに、自分の人生に興じている。カーテンに遮られて顔は見えないが、しかし、私はたしかに、彼らがそこにいることを感じている。

引用:ぼっちの幸福論

 





「お前プロじゃねえだろ!」ってツッコミは置いといて。
 

ちょいちょい僕のもとに来る「ブログ見てるよー」って声が心地良いんですよね。

コメントとかあるとすごく嬉しいです。

 

毎日会って遊んだりするよりも、そのくらいの距離感が一番気持ちいい。

 

ブログはそれをまさに経験させてくれます。




毎日会って話すようなことはないけどブログを通じて確かに見てくれている感覚。





なるほど、納得。

この記事読んで、とことんリアル”だけ”で生きるのは向いてねえなあと思いました。




”ネットを介在しながらもリアルで生きる”




これを目指したいですねえ。
ある意味理想のぼっちの生活なのかもしれません。